欧州は成熟型社会の課題を抽出し,社会イノベーション創生に向けた取り組みを推進している。
本稿では,北欧で日立の研究所が関係する政府・地方自治体の活動を紹介し,そこでの成果,直面している課題を報告する。いずれの活動も,データ利活用・流通による新しい価値・産業生成を目的としている。社会のデジタル化やデータ流通では,プライバシー問題などのネガティブな議論が中心となりがちであるが,デジタル化で先行する北欧では「ソーシャルベネフィット」という思想が育まれ,市民全体で社会を良くしようと取り組んでいる。
社会イノベーションの実現には,このように,まず社会を変革し,新たな文化を醸成することが必要であると考える。
欧州は新たな研究開発枠組みプログラムとしてHorizon2020を2014年1月に開始し,その中で,福祉・食料・輸送など成熟型社会の7つの課題を抽出し,社会イノベーション創生に向けた取り組みを推進している。特にデンマークは国家として,電子政府の普及推進によるITの定着や,教育機会の充実などによる高い目標を掲げ,成熟型社会の課題解決に向けた施策に,世界に先駆けて取り組んでいる。デンマークデジタル化庁1)によると,背景には2040年での税収の18%減予想があり,その状況でのサービス品質維持をめざしている。
本稿では,北欧において関係する政府・地方自治体の3つの活動を紹介し,われわれの成果,直面している課題を報告する。これらの活動は,データ利活用・流通による新しい価値・産業生成を目的に推進されている。
北欧社会はデータ利活用で先行しており,例えばデンマークはCPR(Central Persons Registration)番号という,日本におけるマイナンバー制度を1970年代初頭に導入し,すでに市民生活の基盤として根付かせている2)。社会のデジタル化やデータ流通では,プライバシー問題などのネガティブな議論が中心となるが,デジタル化の取り組みで30年先行するデンマーク政府によると,同国の市民には「ソーシャルベネフィット」という思想が育まれており,北欧市民がデータ共有にオープンであるという特徴は,市民全体で社会を良くしようとする発想からきているという。
ヘルスケア分野において,デンマークは医療費増加による社会保障費負担増が問題となっていることを背景に,10年間で総額400億デンマーククローネ(約8,000億円)を投入して,40か所ある公共病院を16か所の最先端の医療施設「スーパーホスピタル」へと統合するとともに,病院運営効率を25%向上させることを目標に「スーパーホスピタル構想」を推進している3)。
日立は2014年に,ビスペビャー・フレデリクスベー病院とソリューション共同開発の取り組みに合意した4)。ビスペビャー病院では,病院内のスタッフ移動に無駄があると考えており,2015年に既存の救急病棟,ICU(Intensive Care Unit),放射線治療科,入院病棟で,スタッフにビジネス顕微鏡などのウェアラブルセンサーを装着して人流の計測を行い,既病棟の病室レイアウト変更により,約12%の移動距離削減の見込みを示した5)。その結果,2016年には現在設計中の新病院設計図に病室レイアウト最適化を適用した。データから発見されたレイアウト変更案が,彼らの納得を得るいくつかの特徴を有していたことから,実際の新病棟のレイアウトが変更された(図1参照)。
図1|ビスペビャー新病院の病室レイアウト変更設計中の新病院設計図(上)に病室レイアウト最適化を適用した。データから新たに発見された特徴(左)に基づいて,実際の新病棟のレイアウトが変更された(下)。
2016年より日立が取り組み始めたのが,院内感染制御である。院内感染は,欧州をはじめ世界各国の病院にとって重大な課題となっている。例えば,米国での感染管理にかかる費用は,2008年時点で年間100億ドルと推定されている6)。日本での費用は,2009年時点で年間1.7兆円と推定され,デンマークでの費用は,2014年時点で年間2.7億ユーロと推定されている。
ビスペビャー病院の過去3年間のVRE (Vancomycin Resistant Enterococci:バンコマイシン耐性腸球菌)スクリーニングデータの分析を行ったところ,感染が長期化したインシデントが,感染管理費用の主要因であることが判明した。例えば,院内感染の継続期間を各インシデントで25日以内にとどめることができれば,年間200人以上の感染患者,100回以上のスクリーニングを回避できる(図2参照)。2017年には,2.2節で活用した人流データ解析技術により,接触による感染リスクを予測し,スクリーニング結果を待たずに隔離などの対応を取ることで,週単位の対応から日次単位での対応を実現するソリューションの協創を行っている。
これらの活動より,将来の病院内業務効率化・品質向上には,新たなデータ利活用・データ流通が効果的であると考えている。近未来の病院では人・モノが,センサーやデバイスを通じてつながり,互いにデータをシェアするようになると考える(図3参照)。そのために,われわれはIoMT(Internet of Medical Things)システムと,データ活用による効果を実現するプラットフォームを開発していく。
デンマーク政府は2014年,10億ドルを投資し,2つの主要地域の医療用ITプラットフォームとして,米国Epic社製プラットフォームを,Epic社およびNNIT社との協力で導入することを決定した。デンマーク国内の250万人以上の患者,人口の44%をカバーするシステムとなる。この規模を1つのプラットフォームに統一することで,医療用ITシステムの冗長性を減らし,システム間でのデータ通信と流通を改善でき,デンマークの患者に大きな利益をもたらすと期待される7)。
デンマークはさらに,国家医療ITフレームに一貫性を持たせ,現存する26個のEHR(Electronic Health Record)システムを3つに減らす。さらに患者は,単一のアクセスポイントを通じた意思決定とデータ所有が可能となる。
EPICプロジェクトに直接参加しているわけではないが,日立はCopenhagen EMS(Emergency Medical Services)とともに,2017年よりデンマーク首都州に導入されるEPICを活用した異種組織間データ連携に取り組む。
Copenhagen EMSの主なタスクは,救急コールの患者のディスパッチである。対象総人口は170万人であり,年間に救急コール(112番)13万件,非救急コール(1813番)93万件に対応している8)。1日当たり300コールと増加するコール数に,現行リソースでの対応が求められており,1コール当たりの対応時間短縮が課題である。2017年に取り組みを開始したのは,オペレータの迅速な意思決定を支援する「自動トリアージ」であり,病院の治療履歴データを活用したトリアージに挑戦する(図4参照)。
その背景には,EPICプラットフォームにより,首都州組織間のスムーズなデータ流通が可能になったことに加え,前述のCPR番号によって患者個人の情報がすべてひも付いていることがある。日本においても,厚生労働省は病院での治療歴や検診結果などのさまざまな情報を統合し,病院や介護の現場で活用するデータベースを2020年から運用する構想を発表している9)。われわれは,先行する北欧において技術・ソリューション開発に取り組む。
図4|病院の治療履歴データを活用した「救急コール自動トリアージ」CPR(Central Persons Registration)番号によって患者個人の情報がすべてひも付いているデンマークの特徴を生かし,病院の治療履歴データを活用したトリアージに挑戦する。
さらに先行したデータ流通への取り組みとして,コペンハーゲン市で進めているCDE(City Data Exchange)プロジェクトがある。
コペンハーゲン市は,2025年に世界初のカーボンニュートラル都市となる目標を掲げている。同市は現在,年間約200万tの二酸化炭素を排出しており,2025年までに120万tに削減することが目標である。この目標達成に向け,2014年にデンマークの環境・エネルギーに関する革新技術の導入を推進するCopenhagen Cleantech Cluster(現 CLEAN)は,官民の関連データを集め,環境に有効なビッグデータ解析を行うデジタルインフラストラクチャのビジョンを示した10)(図5参照)。
日立は,2015年よりプロジェクトの中心的な役割を担い,コペンハーゲン市などの関係部署と協議を重ね,都市にて官・民事業主体のデータ流通を促進させるため,多様な組織がデータを販売・購入・共有できるSaaS(Software as a Service)型のデータマーケットプレイス(データ取引市場)を開発した。その後,2016年5月より,コペンハーゲン市にて正式にサービス運用を開始した11)。現在は企業などから140程度のデータが登録され,約50社が参加するコンソーシアムと協力し,サービスイノベーションを推進している。
21世紀の経済では,従来のお金の流れに加え,データの流れが成長の鍵を握ると考える。CDEプロジェクトはデータが自由に流れるデータネットワークを提供し,新たな経済活動を生み,イノベーションと成長を促進する(図6参照)。
データ共有に先進的に取り組む北欧においても,企業が自社データを市場に公開し,他企業とデータを取り引きするデータマーケットプレイスは未知の世界である。コンソーシアムに参加する企業は,取り組みに関心を持ちながらも,取引開始には慎重であり,CDEプロジェクトでは市場の活性化施策が求められている。
大きな課題は,企業間のデータ取引文化・慣習の醸成である。データ購入者の側面で考えると,データの価値評価が難しい。企業経営へのデータ活用が進む米国において,各企業がデータアナリストを積極的に採用しているように,データ取引において,購入データの価値を的確に評価し,適切に活用できる目利きが不可欠である。それは魚市場で適切な魚を仕入れて料理する板前のような存在である。一方で,データ販売者の側面で考えると,従来から議論されている,データの権利やプライバシー保護への対応が必要である。
北欧では法整備が進んでいるが,企業側の法理解が十分ではない点がある。加えて,自社データは販売したいが,ライバル企業には販売したくないといった,データ取引先の制限への要求がある。これは自由取引というコンセプトに逆行するが,市場成立のためには不可欠な要素となる。
サービス開始から約1年の経験を経て,現在は,1対1の取り引きを手助けするデータブローカーや,データ価値を探索する協創プロジェクトといった地道な市場活性化に取り組んでいる。
データマーケットプレイスという社会変革を起こし,新たな文化を醸成するため,このような施策が必要であると考えている。
われわれは,データ流通が新たな経済を生み出す原動力だと考えている。特に異組織・異業種間のデータ流通・連携はその経済範囲を拡大し加速する。日立は,国家としてデータ利活用・流通に取り組む北欧において,彼らをパートナーとし,さまざまな活動に挑戦している。病院内でのデータ活用など,いくつかの活動で成果が出始めているが,データ流通の範囲を広げていくことで,新たな課題に直面している。
日立のめざす社会イノベーションとは,社会を変革し,新たな文化を醸成することだと考えている。そこには必ず新技術が必要であり,われわれの開発する技術が,社会変革に貢献していけると確信している。