自分にとって必然と思える道
「私にだって“確信”はなかったですよ。でも“当然”必要になるって思えたから言い続けてきただけです」
平本さんが“当然”必要になると思ったのは、陽子線をはじめ粒子線のがん治療装置。
思えば、子どもの時からずっと電子の振る舞いに興味があった。 小学生の頃のテレビやラジオ(―の電波がどう飛ぶか)に始まり、大学では電離層(地球の周りを電波がどう飛ぶか)を研究。入社後はロマンある核融合(荷電粒子が飛び交うプラズマ状態が条件)をやりたいと希望するも、……夢かなわず専門外の原子力へ。
8年経っても興味は変わらず、頼み込みようやく興味ある加速器(これも電子などの荷電粒子を加速しぶつけ合う)の開発へと一歩踏み出した。
――さて、加速器を使って一体何ができるだろう?
加速器だからこそできて、世の中でまだできていないこと。考えを巡らせていたとき、「粒子線を使ってがんを治療できる」萌芽と呼ぶべきアイデアがアメリカから聞こえてきた。
「従来のX線治療に比べたらずっと良い治療ができそうだっていうのは、医者じゃない私でも分かったんです。粒子線ならがんを集中的に叩ける。がんの周りの正常な部分を傷めることを画期的に減らせると。がんの治療は将来必要になるだろうから、私もこういう装置の開発をやりたい!と思いました」
自分の興味と、社会にとって必要と思えること。2つの輪が重なった瞬間だった。
ただ30年前の当時。これが事業になり得るか、社内の誰にも展望は見えない。 確証の無さに「ほんとうかぁ?」 皆に首を傾げられた。
執念が新しい動きを生み出して
1987年。放射線医学総合研究所(当時)で重粒子線治療プロジェクトが動き出す。幸運にも平本さんは参画機会を得て、加速器の基本設計を担当することに。
プロジェクトへの参画終了後、粒子線治療装置の製品化を提案する段階になり、多くの病院で使ってもらうため、加速器の運転をできるだけ簡単にしたいと考えるようになった。
平本さんはひとり打開策を考え続けた。ふとした瞬間にも思考実験は始まる。そして1年以上経ったある日、まるでアルキメデスのように風呂に浸かりながら閃いた。
そのときのアイデアから生まれた技術が、高周波駆動ビーム出射法。高周波のオン/オフの操作によって1000分の1秒より短い時間の単位で線量をコントロールできる。
論文や特許を必死に調べてみたが、どうやら誰もやっていない。ボルテージは上がる。息を弾ませ、既に始まっていた新しいプロジェクト先で提案してみる。しかし……
「これは海外の誰かやってる?(確証はあるの?)」
「計算まちがってない?」
全くもって信用されない。確証を求める空気はここでも分厚かった。
だが簡単には諦めない。持ち前の粘り強さで、国内外の研究者に提案し続ける。するとじわじわと好奇と興奮は伝播していき、ついには高名な先生が「これは標準的な技術になるかもしれないぞ」と言い出した。
「誰もやっていない方法を思いついて、しかもそれががん治療装置の標準技術になると言われて。医療現場で多くの人に使ってもらい喜んでもらえたら…これはもう何としてでも作りたい!ってなりますよね」
投じ続けた一石は大きなうねりを生み出し、日立がまとめた初の陽子線治療システムとなったプロジェクト、筑波大学陽子線医学利用研究センターで平本さんの技術が導入された。初めて本当にビームが出たときは、正直ほっとした。
筑波大学陽子線医学利用研究センター納め陽子線治療システム(2002年)
理想の治療を叶えるは、いばらの道
こうして国内での治療が始まった後、米国の医療現場に機器を納入するチャンスが訪れる。相手は、アメリカでがん治療の最先端をリードするMDアンダーソンがんセンター。
開発側で培った技術と、医療側の治療ニーズ、これらを突き合わせて実用化を進める。ここから先は開発側の発想だけでは進んでいけない。本当に使ってもらえる装置をめざす平本さんは「自分は研究営業だ!」と、喜んで医師らの下に通った。
例えば30p四方の照射範囲―複数個所に散らばったがん、背骨のがんを照射できるようになる―など、思いもよらないニーズが飛び出してくる。とりわけ現場の医師らが望んだのが、スポットスキャニング照射技術の実用化。どんな形の患部にもピンポイントに高効率で照射できるようになる。
2002年。他社との競合の末に何とか受注に漕ぎつけた後、工場に異動し、設計を担当。治療システムを米国ヒューストンのMDアンダーソンがんセンターに納入。しかし、肝心のスポットスキャニング照射技術(4つの治療室のうち1室に導入)の性能がどうしても達成できない。
「治療室4つのうち3つは既に稼働しているので、日中は調整できないんです。現地の若いエンジニアたちが、毎晩徹夜でトラブルに対応し試験をしてくれて。アメリカと日本、昼夜逆転でしょ。向こうで日が昇ったら日本は夜です。電話越しに状況を詳細に聞いて、その場で解決法を話し合う。そんな日々が延々と続きました」
「不安でしたねぇ。息もつけない。患者を待たせていると病院から怒られるし、上司から『お前ら実験装置を作ってるつもりか、いつになったらできるんだ!』と怒られて、ただただ性能を出すことに必死でした」
いつ晴れるか分からない濃い霧の中、目的地をめざして進むような日々。地を這うような調整を経て、2008年全ての治療室の稼働が始まった。
受注からは既に6年が経過していた。
そして多数の患者さんが、待ち望んでいたスポットスキャニング照射技術で治療されるようになった。
MDアンダーソンがんセンター納め
陽子線がん治療システム(2008年)
夢のタッグも、またしても苦難
その後も、医師らと協働し、より良い治療装置をめざす取り組みは続いた。 MDアンダーソン納入の後、研究所に戻ると、高名な北海道大学・白土博樹教授との共同開発が持ち上がったのだ。
日立のスポットスキャニング照射技術と、北海道大学の動体追跡技術を組み合わせ、呼吸で動く臓器もリアルタイムに追跡し照射する技術――動体追跡スポットスキャニング技術をめざす世界初の試み。実現すれば日本人に多い肺がんや肝臓がんを高精度で治療できるようになる。
この研究は、国の最先端研究開発支援プログラム「FIRST」の採択を受けて進められたのだが、またしても苦難が襲い掛かる。政局の変化により、予算が大幅に縮小されてしまうのだ。
社内では共同開発に消極的な空気が流れ、性能の縮小を提案する動きも生まれた。
しかし、治療に必要な性能はどうしても譲れない。白土教授と自分たちの手で、より多くの人に喜んでもらえる治療装置を作りたかった。
「ここは日立として、何としてでもやらなくては!」 当時の事業部長の加勢もあり、大幅な予算の減額分を、治療に必要な性能はそのままに機器の小型化で乗り切る決断に至った。
それからというもの、どうやったら装置を小型化できるか、開発、設計部門の若手たちとアイデアを練っては当時の事業部長と共に白土教授の下に持っていき、侃侃諤諤、熟議を重ねた。どれだけ双方を飛び回っただろう。
そして2014年。5年の歳月を経てついに新しい治療装置は完成する。
苦しい思いを味わったが、必要は発明の母。この奮闘が装置の小型化と低価格化を推し進め、陽子線がん治療装置の普及と事業化に目途が立ったのだ。
北海道大学病院陽子線治療センター納め
陽子線治療システム(2014年)
平成の時代まるごとを駆け抜けて
MDアンダーソンへの納入後、アメリカのメイヨークリニック、セントジュード小児研究病院など、海外の一流病院への納入が相次いだ。現在もその真っ只中。
今や陽子線治療装置は、日立ヘルスケア分野のフラッグシップだ。
「全部夢のようですね。自分たちで開発した製品が国内の病院に加えてアメリカの病院で使ってもらえるようになるなんて。小さな萌芽がここまでになった。30年という平成の時代まるごとを、ただ必死になってみんなと一緒にやってきた感じです」
最近、長年にわたる自らの研究成果を社内で発表する機会があった。
失敗談をせずに成功したことだけを話していたら、かつての上司が苦言を呈してくれた。
「お前が言うべきことは、いっぱい失敗したということだ。いかにも上手くいっているように話すなんて駄目だろう。日立は、挑戦する者には失敗も許容してくれる会社。そういうことを若手にも知らせないと。それがお前の責務なんだ」
事業化の見通しがつかないと会社に言われ、開発に反対されることもあった。だが一方で、展望が見えずともここまで我慢強く支え続けてくれた。日立はそういう会社。成功も失敗も含め突き進んでいかなければ、道など作れない。
――30年もやったから、違うことをやってみたいんですけど……。
自身の“これから”についても語ってくれた。
「陽子線の治療分野には、将来こういう技術が必要になる、こういう方面を広げていったら、というのがまだたくさんあるんです。周りからは首を傾げられてしまうけど、自分としてはどれも必然性がある。この前も白土先生に新しいアイデアを話したら、それ面白いね!って」
平本さんは目尻を下げ、突き抜けるように明るく笑う。
自分で切り拓いてきた道、これからも尚突き進んでいきそうだ。