デジタルトランスフォーメーションを担う人財の育成・教育
デジタル革命により,イノベーションを通じた新たな価値創生が重要となる中,価値創生に向けた一つのアプローチとして,人間起点で新しい解決策をクリエイティブに生み出していく「デザインシンキング」が注目されている。
日立が進める社会イノベーション事業においても,デザインシンキングを取り入れ,社会や顧客の価値を中心に課題発見・解決案の創生・価値検証を行う顧客協創方法論「NEXPERIENCE」を開発し,実践している。より多くのプロジェクトで価値創生を進めるには,方法論を実践する人財の育成が重要である。本稿では,NEXPERIENCEに基づく社会イノベーション事業に向けたデザインシンキングの重要スキルとその浸透に向けた育成の取り組みを紹介する。
デジタル革命やグローバル化などに伴い,社会や産業の変革が加速している。新しいビジネスが次々と生まれ,デジタル革命の波に乗った企業が急成長したり,業界の垣根を越えた競争によって既存企業が業界内でのポジションを失ったりしている。企業の優位性を左右する要素は「モノづくり」から「ソリューション・サービス」,さらには新たな「価値創生」へと移っており,新事業か既存事業かにかかわらず,イノベーションにより新たな価値を創生していくことが企業の競争軸となっている1)。こうした中,イノベーションを生み出すアプローチとして,技術起点でなく人間起点でニーズを発見し,新しい解決策をクリエイティブに生み出していく「デザインシンキング」が注目されている2)。
日立が進めている社会イノベーション事業でも,社会課題解決に向けて,エネルギー,都市,交通,ヘルスケア,金融,製造などの分野で価値創生に取り組んでいる。その中で,課題発見・解決案の創生・価値検証を行う,デザインシンキングを取り入れた顧客協創方法論「NEXPERIENCE」3),4)を開発し,実践している。より多くのプロジェクトでより大きな価値を創生していくためには,方法論を実践する人財の育成が重要である。
本稿では,NEXPERIENCEに基づく社会イノベーション事業に向けたデザインシンキングの重要スキルと,その浸透に向けた育成の取り組みを紹介する。
デザインシンキング5)とは,「デザイナー的な思考」のことであり,デザイナーがデザインを行う際の考え方やプロセスを課題解決に転用したものである。ユーザーを観察して共感し,問題を定義して,ユーザーに経験価値をもたらす解決案を創生し,その解決案のプロトタイプを試作して,テストを繰り返すことで価値を検証し(図1参照),新しい製品やサービスを生み出していく。
デザインシンキングが注目されている背景の一つには,ニーズが多様化し,その変化も激しいことにある。ユーザーが抱えている問題の本質や価値を捉えることが難しくなる中で,解決案の創生と検証をスピーディーに繰り返すことにより価値あるサービスやソリューションを探索的に見いだすデザインシンキングは,各社で積極的に導入が進められている。
日立では,デザインシンキングに基づく顧客協創方法論NEXPERIENCEを実践し,IoT(Internet of Things)やセンサー,アナリティクス技術,業務ノウハウも活用して「保険弱者解消に向けた新保険サービス」,「エネルギー産業の生産性向上ソリューション」6)などの創生に貢献している。社会イノベーション事業においては,社会を取り巻くさまざまなステークホルダーの価値と,その価値実現に向けて製品や技術を組み合わせたトータルのソリューションを考えることが重要である。以下,デザインシンキングの「課題の発見」,「解決案の創生」,「解決案の検証」の各観点に沿って,特に重要なスキルについて述べる(表1参照)。
NEXPERIENCEは,前述の社会イノベーション事業に向けて,課題の発見から解決案の創生,価値検証を実践することを目的として,2015年に開発された(図2参照)。NEXPERIENCEは,(1)課題発見のための事業機会発見と課題分析の各手法,(2)解決案創生と(3)解決案の検証のためのサービスアイデア創生,ビジネスモデル設計,事業性評価,事業価値のシミュレーションの各手法から成り,これまでグローバルに約1,000件で実践されている。
表1|社会イノベーション事業に向けた重要スキルデザインシンキングのスキルの観点から,特に社会イノベーション事業で重要なスキルを示す。
図2|顧客協創方法論NEXPERIENCEの全体像NEXPERIENCEは,顧客協創の一連のプロセスを支える手法・ツール,協創空間から成る。
デザインシンキングの業務活用場面は,新事業創生だけではない。既存事業のソリューション適用場面においても,顧客のニーズが不確実な場合には,顧客の課題を把握して既存ソリューションに基づく適切な解決案を創生し,その価値を素早く検証することが有効である。顧客と関わる営業や開発などの直接部門だけでなく,直接部門に社内サービスを提供し支援する総務や情報システムといった間接部門においても,課題の発見・解決案の創生・価値検証という流れは,社内に価値を生み出していくために有効である。
以上から,デザインシンキングのスキルを持つべき人財は一部にとどまらず,その内訳は大きく3つに分けて考えられる(図3参照)。
デザインシンキングのスキル浸透に向けた,それぞれの育成アプローチについて述べる。全社員を対象としたデザインシンキング理解者養成については,入社時などの定期的な教育やeラーニングなどで基礎理解を広める。デザインシンキングの実践者については,演習を中心とした研修や,実際のプロジェクトを経験させることで養成する。各自の業務においてデザインシンキングの適用の是非を判断し,必要に応じて専門家の協力を仰ぎながら実践に移せるようになることをめざす。専門家については,実務での数年の実習を通じて,デザインシンキング適用の企画,ファシリテートを現場で体験させながら育成する。次章では特に,実践者と専門家の育成の取り組みについて述べる。
実践者育成に向けた施策の一つとして,日立総合技術研修所にてNEXPERIENCEの以下の手法を習得する研修を実施している。
約6人で1チームとなり,3日間で一から事業機会を検討し,サービス案の創生からビジネスモデル設計,事業性評価までを体験する。研修は,各手法を用いたチームでの演習と発表を繰り返しながら進められる(図4参照)。事業構想立案を流れに即して実践的に体験でき,毎回の受講後アンケートで高い評価を得ている。
図4|NEXPERIENCEを用いた研修の様子チームでの演習風景を示す。
専門家育成に向けた取り組みの一つとして,社内事業部門の実務者層を対象とした実習プログラムである「特別業務研修」(以下,「特修」と記す。)を実施している。日立は,NEXPERIENCEを顧客と共に実践する活動を「Exアプローチ」として推進しており,デザインシンキング専門家としてのスキルを備えたデザイナー,ビジネスコンサルタント,エンジニアを組織化したExアプローチ専門部署を有している7)。特修は,この専門部署にて実施している取り組みであり,各事業部門より選抜された特別業務研修者(以下,「特修者」と記す。)を有期で受け入れ,上述した専門家と共に実際のプロジェクトに従事させ,専門家として必要なスキルの育成を図っている。講義や演習を中心とした短期・部分的な研修と異なり,特修者は,数か月から数年間,実際のプロジェクトに関わる。そして,プロジェクト全体を推進する過程においてどのようにデザインシンキングを適用し,各手法をファシリテートしていくのかを,専門家の振る舞いやアドバイスから学びながら実践し,顧客のフィードバックを肌身で感じ取りながらその効果を体感する。実際の時間軸や現場で起こる一連の体験としてデザインシンキングの適用を経験し,専門家レベルとして求められるスキルの体得を図ることができるのが特長である。
こうした実践をさらに有益な機会にするべく,上述の専門部署ではNEXPERIENCEの手法別教育講座や事例研究会などのイベントを定期的に企画・運営している。特修者は,各イベントで得た知識や技術を自身の実践の中ですぐに試行できるほか,日々の実践の中で得た気付きや問題意識を特修者どうしで共有し合い,学びを深めることができる。このようなイベントは,特修期間中だけでなく修了後においてもオープンになっており,特修修了者の継続的な学習やスキル更新に加え,ネットワーキングにも役立てられている。
以上,専門家育成の取り組みについて紹介したが,日立では,専門家を対象として「NEXPERIENCEサミット」という会合を定期的に開催している。世界各地のデザインシンキング専門家を集め,実践事例や工夫,学びを共有するとともに,人脈形成を図ることでグローバルなコラボレーションを促進し,専門家自身のデザインシンキングスキルの研鑽(さん)を図る取り組みとして実践の輪を広げている。
デザインシンキングは,誰でもイノベーションを生み出せる魔法の杖ではなく,より良い結果に向けて進むためのガイドである。ガイドを使ってより良い結果を出すためには,自らの「意思」で繰り返し実践する「行動」が重要である。シンキング=思考ではあるが,重要なのは「意思」と「行動」であることを浸透の取り組みでも強調している。
社会イノベーション事業を推進するにあたっては,手法を活用する人財の育成とともに,多様な人財を集めたチームでの協創が重要である。今後は社内にとどまらず,社会課題の解決に向けたオープンな協創を拡大するべく,社外の企業や大学への普及にも力を入れていく。