次世代を切り開く破壊的技術の創生
再生医療は,これまで有効な治療法のなかった難病の根治を可能にする革新的医療として大きな期待を集めるが,その実用化と普及に向けては克服すべき課題がある。日立は2017年に日本最大級のバイオメディカルクラスターである神戸医療産業都市に日立神戸ラボを開設し,日立独自の完全閉鎖系自動培養技術を核に,再生医療の主要課題である細胞の安定的製造とコストの合理化による,再生医療の普及をめざしている。
本稿では,iPS細胞を利用した網膜疾患やパーキンソン病克服に寄与する再生医療の実用化と産業化に向けて,アカデミアならびに産業界のトップリーダーとともにオープンイノベーションで推進している最前線での取り組みについて述べる。
2006年に京都大学の山中伸弥教授らによりヒト人工多能性幹細胞[iPS細胞(induced Pluripotent Stem Cell)]1)が創生された。それから10年以上が経過し,日本発の研究成果であるiPS細胞は再生医療の分野において,さまざまな難治性の疾患に対する革新的な治療を支える基盤として,その実用化に向けて新たな段階を迎えている。このような状況を背景に日立は,再生医療の普及への貢献をめざし,2002年度から完全閉鎖系を特徴とする細胞自動培養装置の開発を行ってきた。2017年には研究開発拠点を埼玉県鳩山町から兵庫県神戸市の神戸医療産業都市に移転し,積極的にオープンイノベーションを推進している。また,再生医療分野のトップリーダーとの協創により開発を加速している。これにより,医療用の細胞製造における自動培養装置の実用化に向けて取り組んでいる。
本稿では,神戸医療産業都市における日立神戸ラボの取り組みを紹介するとともに,再生医療が拓く未来について考察する。
再生医療の市場規模は,さまざまな疾患に対するiPS細胞由来の細胞の臨床実用化に向けた取り組みが後押しする形で,2020年以降に市場が急成長することが見込まれており,2030年には世界規模で17兆円の市場に拡大すると予測されている2)。
国立研究開発法人理化学研究所の橋政代プロジェクトリーダーらは,2014年,世界で初めて患者自身の表皮組織から作製したiPS細胞由来の網膜色素上皮(RPE:Retinal Pigment Epithelium)細胞シートを加齢黄班変性の患者に移植(自家移植)し,術後2年の経過が良好であったことを報告した3)。この業績は高い評価を受けたが,iPS細胞から治療用細胞が製造されるまで,培養・加工ならびに品質評価を含めた時間とコストが現状は大きな課題となっている。2017年には京都大学iPS細胞研究所(CiRA:Center for iPS Cell Research and Application)の健常ドナー由来のiPS細胞ストックから作製したRPE細胞懸濁液を患者の網膜に移植(他家移植)する臨床研究が開始された。2018年には,京都大学CiRAの橋淳教授らが公的医療保険の適用をめざし,iPS細胞ストックからドパミン神経前駆細胞を調製してパーキンソン病患者の脳に移植(他家移植)する医師主導治験を開始した。さらに,iPS細胞を用いた大阪大学の重症心不全,角膜損傷,慶應義塾大学の脊髄損傷患者への移植治療も臨床研究として近く開始される予定である。
再生医療では,患者自身の細胞を移植する自家移植と,他者の細胞を移植する他家移植が行われている。iPS細胞を用いた再生医療において自家移植は,免疫拒絶の可能性は限りなく小さいものの,個別に患者本人の体性細胞からiPS細胞を作製し,そのつど目的の組織や細胞を調製するため,前述のとおり調製にかかる時間と高額なコストが課題となる。一方他家移植は,他者のiPS細胞を大量に作製し,必要に応じて目的の組織や細胞を調製するため,自家移植と比較してコスト低減が見込める。そこで京都大学CiRAは免疫拒絶反応に関わるヒト白血球抗原(HLA:Human Leucocyte Antigen)の型を拒絶反応が起きにくい組み合わせで有する健常ボランティアから皮膚や血液を採取し,そこに含まれる細胞からiPS細胞を作製して,さまざまな品質評価を行ったうえで,再生医療用iPS細胞ストックとして保存し,2015年から医療・研究機関や企業への提供を開始した。2018年末時点で日本人の約32%のHLA型がカバーされており4),このストックの中から患者のHLA型に相当するiPS細胞を用いて目的の組織や細胞を調製して治療に用いれば,他家移植であっても免疫拒絶を低減できると期待されている。
今後のiPS細胞を用いた医療の本格化を見据え,高品質のiPS細胞由来細胞製品を合理的な価格で提供し,安定的に患者に届けるためには,その量産化に向けた課題を一つ一つ解決していくことが重要である。現在移植に適した安全な治療用細胞の製造は,培養クリーンルーム内での専門技術者の手作業(手技)による培養が欠かせないが,培養設備の維持管理費や人件費が高額なコストの要因の一つになっている。また,細胞品質が作業者のスキルに依存する場合があり,移植用途に求められる品質をどのように担保するかが細胞製造における重要な要素である。さらに人が作業することに起因するコンタミネーション(生物学的汚染)も想定されるリスクとなる。
これらの課題を日立の技術で解決するべく,日立神戸ラボでは再生医療用細胞自動培養技術の開発に取り組んできた。
日立の細胞自動培養技術の開発開始は2002年度にさかのぼり,その後15年にわたる開発の結果,現在の日立独自の完全閉鎖系細胞自動培養技術を確立するに至った。図1に従来法と完全閉鎖系培養の概念図を示す。
従来法が,CO2インキュベーターや安全キャビネット内での開放系操作および培養であったのに対し,完全閉鎖系は根本的に異なる概念で構成されている。完全閉鎖系では,培養容器や培養液用のボトルやバックをチューブで連結し,すべての末端を閉鎖した培養モジュールを作製し,ガンマ線照射によりモジュール内部を滅菌する。これを装置恒温槽内にセットした後,細胞懸濁液を無菌的にモジュールに接続し,培養を開始する。培養に必要な5%CO2混合ガスは,ボンベからディスクフィルタ(0.22 μm孔径)を通してチューブ経由で加湿ボトルを通過後に培養容器に間欠送気する。培養液はペリスタポンプを用いてチューブ外から送液制御を行い,一定の頻度で排出と供給を繰り返す。培養モジュール内部を外部環境に暴露することなく培養を継続できる点で,微生物をはじめとする異物の混入の可能性が極めて低く安全性が高い。培養モジュールは単回使用のため,培養終了後の環境のクリーニングが簡便で,交差汚染のリスクが低い。これらの特長に加え,従来手技で行っていた培養を自動化することにより,品質の安定化と量産化が実現できる。図2にiPS細胞大量自動培養装置iACE1の外観を示す。完全閉鎖系を採用し,10枚の培養容器を用いたiPS細胞の平面培養が可能であり,iPS細胞の大量培養に加えてドパミン神経前駆細胞への初期分化にも実績がある。詳細は次章で解説するが,日立から再生医療の実用化に最先端でグローバルに取り組む大日本住友製薬株式会社の再生・細胞医薬製造プラントに製品第1号機が納品された5)。
現在日立神戸ラボが拠点を置く神戸医療産業都市は,阪神・淡路大震災後の復興事業の一環として,神戸経済の活性化,市民福祉の向上,国際貢献を目的に設立され,基本構想の検討が開始されてから2018年に20周年を迎えた。神戸医療産業都市はメディカルクラスター,バイオクラスター,シミュレーションクラスターの三つの分野のクラスターから構成されている。日立神戸ラボは2017年に竣(しゅん)工した神戸医療イノベーションセンター(KCMI:Kobe Center for Medical Innovation)に所在する(図3参照)。2019年3月現在,中小企業・ベンチャー企業から大手製薬会社に至るまで352社の医療関連企業・団体が国内外より進出し,日本最大級のバイオメディカルクラスターに成長した。公益財団法人神戸医療産業都市推進機構理事長の本庶佑博士が2018年のノーベル生理学・医学賞を受賞したこともクラスターの性格を特徴づける事例と言えるだろう。
日立神戸ラボは2017年から神戸医療産業都市に参画し6),都市内に拠点を置く再生医療分野のトップリーダーと連携し,オープンイノベーションにより自動培養技術をコア技術にiPS細胞由来細胞の実用化に向けた研究開発を推進している。以下に二つの事例について紹介する。
図4|iPS細胞由来RPE細胞シートの培養自動化検証培養したRPE細胞シートの縦断面を細胞間接着のマーカ(ZO-1,赤)と基底膜のマーカ(ラミニン,緑)に対する特異的な抗体を用いて蛍光検出を行った。DAPI(青)は細胞の核を示す。
日立神戸ラボでは,2016 年から理化学研究所の橋政代プロジェクトリーダーらと共同研究を開始し,iPS細胞由来RPE細胞のシート化において閉鎖系自動培養を検証した。
加齢黄班変性は加齢に伴って発症し,網膜の中心部にある黄班部の機能が低下し,最悪の場合は視力を失うこともある難治性眼疾患である。日本における潜在的患者数は69万人に上ると推定されており7),世界的に見ても失明原因の第3位であり,罹(り)患し失明することによる経済的損失も大きい。治療には進行を抑制するために薬物投与が行われるが,根本的な治療のためには障害された網膜組織を移植治療することになる。1980年代後半から,中絶胎児の網膜あるいは正常な網膜組織の一部を移植することが行われていたが,移植組織に対する免疫拒絶反応,倫理的な課題や高い侵襲性から,これらの課題を解決し,安全かつ安定的な移植治療用組織が求められていた3)。前述のとおり,理化学研究所では自家iPS細胞由来のRPE細胞シートの作製とそれを用いた加齢黄班変性の治療に成功していた。そこで日立神戸ラボでは,それまで体性細胞由来の角膜上皮細胞ならびに口腔(くう)粘膜細胞の細胞シートの培養自動化で実績のあった試作機,ACE3(Automated Cell Culture Equipment 3)を用い,iPS細胞由来RPE細胞シートの培養自動化を検証した。培養プロセスは以下の通りである。
その結果を図4に示す。細胞間接着の形成を示すZO-1(赤)と,基底膜の形成を示すラミニン(緑)のシグナルを自動培養,手技培養でともに検出し,iPS細胞由来RPE細胞シートの培養自動化が可能であることを確認した8)。
図5|自動培養(iACE)で作製した細胞の手技培養との同等性評価(a)iPS細胞の7日間の増殖倍率の比較を示す。手技培養は装置と同型の開放系大型容器を用いた。iACE:n=10,手技:n=3,エラーバーは±S.D.
(b)遺伝子発現プロファイルの比較を示す。網羅的に遺伝子発現量を評価し,主成分分析を行った。iPS細胞および中間体はそれぞれiACEと手技培養で作製し,中間体から最終製品への加工は,従来法で作製した。元の細胞が異なる製造方法であっても,最終製品に違いは出ない。
また,大日本住友製薬,京都大学CiRAの橋淳教授らとともに,2015年から国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED:Japan Agency for Medical Research and Development)「再生医療の産業化に向けた評価基盤技術開発事業」において,パーキンソン病治療に向けたiPS細胞由来のドパミン神経前駆細胞の製造プロセスの開発を行っている。
パーキンソン病は脳内のドパミン神経細胞が脱落することで運動障害を引き起こす神経変性疾患で,日本では難病に指定されている。国内での患者数は16万人を超えるとされ,患者の要介護度が高く,社会的コストの高い疾病と言える。治療には薬物投与のほか1980年代から細胞移植によりドパミン神経を補充する治療も行われており,その有効性は知られていた。しかし,移植する細胞が中絶胎児由来であるため,倫理面や供給面で問題があるうえ,移植細胞の純度の低さによる副作用も起こっていた9)。そのため,iPS細胞由来のドパミン神経前駆細胞を移植する方法が提案され,iPS細胞から高効率かつ高純度なドパミン神経前駆細胞を製造する方法が,橋淳教授らによって開発された10)。すでに動物実験でも安全性と有効性が確認され11),他家iPS細胞を用いた治験が2018年に開始された。iPS細胞由来ドパミン神経前駆細胞製品開発は大日本住友製薬が推進している。
細胞製品化においては,大量の細胞を医療グレードで製造するための技術が必要となる。そこで,日立独自の完全閉鎖系自動培養技術を,iPS細胞拡大培養および初期分化誘導工程に適用するために,前述のiPS細胞大量自動培養装置(iACE1)(図2参照)を開発した12)。
手技培養での培養条件を可能な限り装置で再現すると同時に,手技培養とは根本的に異なる条件,例えば閉鎖系空間での培養,チューブを介しての送液・送気については,手技培養における従来の培養条件を自動化のために変更するたびに,自動培養した細胞が手技により培養した細胞と同等の品質を保持しているか,一つ一つ検証を行った。これにより自動培養全体の培養手順(プロトコル)を構築した。
このようにして構築した自動培養プロトコルを用いて,iPS細胞の拡大培養とそれに続く初期分化誘導培養を日立がiACE1を用いて実施した。自動培養した細胞を無菌的に回収した後に,大日本住友製薬が最終工程まで進めて,各工程の細胞の品質を手技培養と比較した。
その結果を図5に示す。図5(a)はiPS細胞の拡大培養後の増殖倍率で,手技培養と自動培養はともに同程度の増殖倍率であったことが確認できた。図5(b)は,拡大培養したiPS細胞,および初期分化誘導した中間体,そしてさらに分化を進めた最終製品の遺伝子発現を網羅的に解析し,主成分分析によってそのプロファイルを比較したものである。手技培養,自動培養ともに同様のエリアにプロットされることから,遺伝子発現レベルでも同等の品質を有していることが確認できた。
iACE1は再生医療用細胞の原料となるiPS細胞の大量培養が可能であるだけでなく,接着培養であれば神経分化誘導以外にも適用可能な汎用的装置である。今後さまざまな細胞の製造に適用し,再生医療の普及を牽(けん)引していくことをめざして開発を続けていく。
およそ10年後の2030年には,複数の難治性疾患に対し,iPS細胞由来の細胞・組織が適用され難病が克服されているかもしれない。再生医療の普及のためには,医療用細胞を量産化し,安定的に供給しなければならない。また,再生医療を現在の主要拠点から他拠点へ拡大するには,細胞培養の技術移転において,場所や技術者に依存せず同じ品質の細胞を製造するために,自動培養技術は大きく貢献できる。このような観点から,日立は,現在から近未来における課題やニーズに基づき,再生医療の普及に貢献できる自動培養技術の開発に引き続き取り組む予定である。
患者自身の細胞からiPS細胞を作製し,目的の細胞を調製して移植する自家移植においては,iPS細胞の作製に時間とコストがかかることが課題であるが,免疫拒絶が起きる可能性が低いことから,患者にとっては大きなメリットがあり理想の個別化医療となりうる。山中教授は,2019年の2月に行われた講演の中で,「2025年の大阪・関西万博で,患者自身の細胞からつくるマイiPS細胞を披露する」と述べた。iPS細胞の作製における課題を解決し,100万円程度の低価格で提供する意欲を示したものだ。日立は,東京大学ならびに京都大学と連携し,マイクロ流路を用いた細胞マニピュレーション技術をベースに自家iPS細胞作製に向けた技術開発に取り組んでいる。具体的な目標とするべきコストと時期が示されたことを励みに,今後もオープンイノベーションにより一層の研究開発の加速を図りたい。
本稿では,iPS細胞を用いた再生医療の実用化に向けた動向と日立神戸ラボの取り組みについて述べた。
再生医療が拓く未来の健康長寿社会を実現するためには,まだ高いハードルが多くあるが,世界の誰もが再生医療を享受し,難病が克服された社会の実現に貢献していきたい。
本稿で紹介した内容の一部は,文部科学省先端融合領域イノベーション創出拠点形成プログラム「再生医療本格化のための最先端技術融合拠点」,日本医療研究開発機構(AMED)「JP18be0104016」において実施した。本研究開発にあたり,ご指導・ご協力いただいた東京女子医科大学,京都大学iPS細胞研究所,理化学研究所,大日本住友製薬株式会社,神戸医療産業都市推進機構,神戸市の関係各位に感謝申し上げる。