自ら飛び込むことで起こった、融合のうねり。
今までのやり方。
人はどうしてもそこに固執してしまう。
差し迫った課題や不自由がなければ尚更のことだ。
堀田さんにとって初のシナジー体験は、自らが突破口となって引き起こしたものだという。
自らが提言した新しい融合技術を、いわばアウェーの地に飛び込んで開発を始めたことがきっかけだった。
堀田さんは1983年に入社、茨城県日立市の日立研究所(以下、日研に省略)に配属された。
時は半導体やコンピュータなどIT事業が伸び盛りの頃だ。
最初に与えられたテーマはBiCMOS※(バイシーモス)という半導体を用いたマイクロプロセッサの開発だった。
※ 半導体回路にはバイポーラとCMOSの2種類があり、BiCOMSはその両者を組み合わせた新タイプで、高速かつ消費電力が少ない。
日立では、コンピュータ事業部と半導体事業部それぞれが、別の方式を用いてマイクロプロセッサの開発に取り組んでいて、堀田さんのユニットは双方の開発に関わっていた。
研究所にいると活動の横のつながりがよく見える。
「この2つのやり方を融合すれば、もっと良いマイクロプロセッサができる」
そう確信した。
堀田さんはBiCMOSの開発にあたり、初めは要素技術の研究に取り組んでいた。
しかし製品化を試みないことにはゴールは達成できないと、大型汎用コンピュータのマザー工場である神奈川工場(当時)に開発の提案を始める。
インフラ事業を中心とする茨城地区と、IT事業を手がける京浜地区。地理的な距離を反映するように、当時は従業員どうしの交流も乏しかった。
「従来のやり方で納得している人からすれば、きちんと利益を上げているのにどうして別のやり方を取り入れるのか、理解できない。茨城の新参者が異なる文化をわざわざ持ち込んで、いったい何ができるのかと、いろいろな課題を指摘されました。」
それでも時流も手伝って、なんとか新しいプロジェクトを任せてもらえることになった。
しかし集められたのは、研究者など、それまで「設計」に携わったことのないメンバーばかり。プロセッサに精通している人も工場内にいたのだが、みんな自分の仕事で手一杯だった。
「やったことがない製品の開発。しかも新しい技術を使って。見よう見まねでやろうっていうのだから非常に苦労しました。今思えばプロセッサの作り方のコツが、まったく分かっていなかった。」
結果はというと……なんと性能未達で期限切れ。
120MHz(メガヘルツ)という周波数を目標に掲げていたが、80MHzにしか届かなかった。
「BiCOMSならもっと良い性能が出せます」と、まったく異なる設計文化を持ち込み、周囲を一生懸命説得しながら取り組んだ。それなのにだ。
日研はもうプロジェクトから外される、堀田さんはそう思った。
ところがこの失敗、思わぬ流れを生む。
このプロジェクトのテーマ、工場中で実は注目されていたのだ。加えて社外企業とのアライアンスにも関係していた。これは何としてでも成功に導かなくてはと神奈川工場が本腰を入れることとなった。
「日研だけにはもう頼れない。神奈川工場の専門家たちがプロジェクトを見に来ました。失敗と思っていましたが、いろいろ分析をしてみると『良い提案だった』、『日研の力がないとできない』と、逆に評価される契機になって。最終的には、再挑戦のプロジェクトにも参画してほしいと工場長が直々に言いに来てくれました。」
そうしてプロジェクトは再スタート。工場は経験者を次々と投入した。以前は研究所と工場が分散して進めていた設計は、初めから共同でやろうと同床執務となり、コミュニケーションの質が変わった。まさに一連托生。依頼する・されるの関係でなく、チーム一丸となりプロジェクトに臨んだことが成功へとつながった。
その後、開発プロジェクトは超並列型スーパーコンピュータ用プロセッサへと方向転換。
堀田さんらのプロセッサを搭載した超並列スパコンは、一時、世界最高速を記録した。
新参者の体当たりの挑戦は、技術の融合と組織の融合、2つのうねりを生み出した。
共同プロジェクトで完成した
超並列スパコン用プロセッサ「HARP-1Eチップ」
当時最先端の0.3μmCMOSを使用し、周波数typical 200MHzを実現。チップサイズ15.7mm×15.7oでトランジスタ数450万個という高集積ながら、電源圧力を3.3Vから2.5Vに低減し、消費電力は前機種17W(120MHz)に対し15W(150MHz)を達成している。メインフレームからワークステーションに設計環境を改善するとともに、筑波大学と共同研究したスライドウィンドウ機能を独自アーキテクチャとして採用した。
「なぜこの技術か」―本質への問いが、重い扉を開く。
1995年。組織改編のため、堀田さんは日研の本拠地である茨城地区へと戻る。
そこは言うまでもなく日立創業の地。電力や鉄道、水道など古くからあるインフラ事業の工場が立ち並ぶ。一見ITとは関係なさそうだが、それらの製品にも制御(コントロール)するための「組み込みコントローラ(マイコン)」が実装されている。
京浜地区で培ったLSI(大規模集積回路)技術を活かし、その刷新を行ってほしい。
これが堀田さんに与えられた次のミッションだった。
「僕が戸惑ったのは、神奈川と茨城が正反対の状況だったこと。神奈川のコンピュータは大勢で1つのコンピュータをやる。ところが茨城の組み込みコントローラはたくさんの種類があって(大みか工場だけでも数十個ある)、それぞれが少人数で独立してやっている。まさに開発者は一国一城の主といった様相でした。」
どこから手をつけるべきか。堀田さんは途方に暮れる。
まずは1つ1つ工場を訪問してみる。しかし当時のIT事業とインフラ事業は、まるで別会社。茨城地区の重電機械中心の世界では、組み込みコントローラも脇役でしかなかった。
「神奈川工場がなんだ!」
「俺がやっているものの方が良いはずだ!」
またしても強い反発に遭う。みんな自分のやり方にプライドを持っていた。
その後も提案を重ねたが、話を聞いてもらえるようになるまで、1年を要した。
「それでも僕には自分の技術を活かしたい、という強い気持ちがありました。だから何でこの人は反対をしているのか、何で上手くいかないのか、否が応でも考えることに。本質を突き詰めて考えて、再び相手にぶつけてみる。そんなことを幾度となく繰り返しました。」
何故この技術が必要なのか。
本質に立ち返り、1つ1つ丁寧に提案することを始めてみると、次第に興味を持ってもらえるようになった。
技術の変遷をマクロな視点で見れば、ITの流れが次第にOTの世界に波及していた。しかも堀田さんのもとには確かなコア技術がある。きちんと技術の本質を紐解いて伝えていけば、「なるほど、新しいことを提案してくれている」と認めてもらえたのだ。
神奈川工場での開発経験も良い方向に作用した。
「『研究開発』という言葉があるけれど、研究と開発って、実は全然違うんですね。研究は1つでも新しいことがあればいいが、開発は1つでもミスあれば命取り。僕らはずっと割と開発に近いことをやっていたので、こういう技術だったら最後まで製品に仕上げられますと、開発側の思考で提案できたことも良かったと思います。」
ひとたび導入が始まると、那珂工場、水戸工場、国分工場、佐和工場、大みか工場と次々に他の工場にも波及した。10年をかけ、茨城地区のほとんどの工場、ほとんどの分野の組み込みコントローラの刷新を手掛けた。その数は40個以上に上る。
価値をつなぐということ。
事業でいちばん成功率の高いパターンは、ある所で成功した技術を、優秀な研究者が“ポーター(運び手)”となり、受け皿となれる別の工場に展開すること。堀田さんは自身の経験を振り返る。
「ただ横展開するだけならば、優秀な研究者はいらないと思われがちです。しかし価値をつなぐことはとても複雑で、簡単なことではない。従来のやり方が根付いた所に、他の文化や技術を持ち込むことは、大きな反発を伴う。技術の本質、つまり原理や仕組みを本当に理解している者でなければ、その価値を伝えていくことはできないのです。」
日立の事業は歴史が長い。1つの技術やプロジェクトに十年、数十年単位で取り組むことも少なくない。ともするとカイゼンだけに携わり、何故その技術を使うのか、本質を考える機会を失ってしまう。時には振り返り、自分の頭で考える力が大切だという。
LSI技術の一巡後は、電力事業のパワーエレクトロニクスやプラントでの画像処理技術を、成長分野の自動車につないだ。その後再び京浜地区へ戻り、インフラ事業とIT事業のつなぎ役として飛び回った。
そして今、堀田さんは再び茨城地区へ戻ってきている。
今回はハードウェア技術に代わって、AI(Artificial Intelligence)やセキュリティ、ロボットなど、ソフトウェア技術の開発者と交流し、それらを使いこなす術を大みかで広げようと奮闘中だ。どこでどのように使うか、それこそが肝であり付加価値のつけどころ。適材適所を見極め、価値をつなげている。
「振り返ってみると、自分の研究人生は、偶然にもOTとIT の間を2往復していました。ちょうど日立全体の流れと沿うようでもあります。これは偶然か、意図したことか。私にも分かりません。しかしこの2つの価値をつないできた時間は、非常に面白いものでした。」
堀田さんは満面の笑みで語る。
次の10年、20年はどんなOT×IT の波が描かれるのか。
好奇心の塊のように輝くその目は、未来を見据えている。